夕方、公園で遊んでいたら、いつものように、公園の中に落ちている葉っぱや横たわってる草木を集めてプレゼントしてくれた。

娘がくれた花束

「こんな小さな場所から少しの間で、こんな美しいものをつくれる希美、素敵だね。」

と、私が伝えると、

「いいや、違うんだよ。この場所は、人の嬉しいとか楽しいとかいうエネルギーが集まって、草花、木、そのものが美しいんだよ。」

「ほらみて、地球は全てグラデーション。太陽は登り沈んでいく中にグラデーションがあるでしょ。草花、木々も、若葉から成長して枯れていく。グラデーションは美しい。」

「おばあちゃんはママに出会うために生まれてきて、ママは希美に出会うために生まれてきた。そして、希美はママを喜ばせたいって生まれてきた。命もグラデーションで続いていき、美しい。」

公園で草を刈っている人がいて、刈られてる草花をみて心を痛める。

草花も命。意図的に刈らなくても、生えてるそのまんまの様が美しいと言う。私も野生のまんまが好きだ。

もちろん、草を刈ってる人にも考えがあってのことだし、娘がこんな風な考えを発するのは、私との会話から真似して言っている部分もあると思う。

でも、私が言葉にできなかった言葉をも、彼女の感性から湧き出る言葉となり、彼女の感性と同調し合う、美しい響き合いに、なぜだか心奪われなぜだか涙がほろりと溢れるトキがある。

きっと求め合ってようやく会えたのだと思わずにはいられない、何かがある。

繊細すぎて大変なこともあるけれど、繊細すぎると思うのは、今の世の中からの視点であって、繊細すぎる子どもたちの方が、人間本来の感覚なのだと思う。

そんな子どもたちの声に耳を傾けると、大人たちが見過ごしてる、いや、今の大人たちが子どもの頃に「気に留めていては」生きることができなかった、社会システムの綻びに気づかされるだろう。

自閉症や発達障害と呼ばれる子どもたちの、あの繊細さや五感の鋭さ、感受性の豊かさ、ある一つの能力に優れ他と合わせられない、それらの特徴は、

本来の純粋な魂の生き方なのかもしれない。

私たちに教えに来て、世界を変えに降りてきたんだと感じずにはいられない。

これまでの個人や社会システムの固定概念、考え方やあり方を、いまパラダイムシフトさせる時がようやくやってきたんだ。

そんな風に、子どもに畏敬の念を持ち、接してみたら、私たち大人にも新しい風が吹いてくる。そう、感じる。